昭和52年02月10日 月次祭



 今こちらにまいっておりましたら、私の控えの所の襖が破れているんです、もう本当にあの、この無傷のものが傷が出来る、破れてならないところが、破れておるというほど、目に付くものはないし、またそれこそ見苦しいものです。いわゆるそれをたまに瑕だと申します。どんなに素晴らしい玉であっても、玉でありましても、中に糸くずほどの屑があったら、もう値段はそれこそ半減も、また半減もすると言う事でございます。
 私共人間、まあいうならば、無傷のような状態のものというのは、なかなかおりませんけれども、もうこれは人間だから、もうこれは私の癖だから仕方がないと言う所には、もう信心はありませんと。もう信心はどこまでも、本心の玉を研くものですからね。それには、信心は日々日々の改まりが第一じゃと、仰せられるのでございますから、この日々の改まりに、また本心の玉を研いて研いて、研ききっていくところに、信心のいわば値打ちがあるのです。
 玉に瑕があったらもうその傷がいわゆる、玉に瑕になって値打ちが半減する。値打ちが無くなるように、私共はその値打ちを求め、値打ちを願って信心を進めていかなければなりません。先程上で若い先生が前講を努めておりました。北九州の尾道教会の若先生になられる方であります。お父さんを早く亡くされて、お母さんがお一人で教会を守っておいでられる。もう子供心にもお母さんが大変だなと。早く僕が一人前になってお母さんを助けたいと言うので、もう高校を卒業すると同時に学院に入らせて頂いた。
 そして今度自分から願い出て、合楽教会で暫く修行させて頂きたいという願いの元に、まあこちらに修行に来ておるのです。先生が今日お話の中に申しておりましたように、皆ここに参りましてレポートを出しました。中に先生がもう切々と書いておることが、親に一日も早く僕が一人前になって、親に安心してもらいたい、信者さん方にも喜んでもらいたい。第一の私の願いは、亡くなられたお父さんの御霊とお話がしたいち言う。まあ私は、まあそんな事が出来るかできない。
 まあ出来るかのようにあっても、それは本当のことではないでしょうけれども、その私は健気な心に打たれました。神様はねそういう健気な心に、神様もやはり打たれなさるようでございます。あんたがとても難しか、とても出来るもんかいと、例えば思うておっても、どうにも止むにやまれん心で、どうでもそういうおかげを頂かせて下さいと願う心。そういう心に神様が、感応ましますのです。いうなら傷があっても、もう神様が傷を忘れてしまいなさるほどしに。
 いうならばその傷が、例えばありましても、それをかぼうて下さるかのように、傷がないもののように、おかげを下さるのです。私共も何時もそれを思います。もう神様のおかばいの中にあるんだなと、まあ厳密に言うたら、傷だらけの私でございましょうけれども、もうそれこそ玉のようなものとして、神様がおかげを下さってあるのが、今日合楽のゴヒレイだと思うのです。ですから信心とは、もうそれをね精進しなかったら、もう信心じゃないです。
 昨日は学院の今の先生方が、三人ま四、五日、おかげを頂く事になっとります。折角こちらへ参りましたけれども、それこそ三度の食事を二食にしてですからね皆が。もう合楽の教会は何十年も、それが当たり前のごとになっとりますけれども、若い人達が三食を二食にされるなんて、やっぱ随分きつかろうとこう思うのです。まそういう修行にも耐えて、まそれこそ感動いっぱいで修行しております。
 もうとりわけ今来ております、三人の例えばまあいうならば、悪名高い合楽に目指して、自分から志願してくると言うのですから、やはりそこに違ったものを、皆さんが持っておられるとこう思うです。それこそ今日先生が申しておりましたように、こちらにこらせていただいた途端、もうそれこそ、異様なまでの感動を覚えております。もうそれこそ、むんむんするような信心の匂いというか、信心の雰囲気の中にその只中で、これから修行が出来ると思うたら、それが有難い。
 神様がござるのやら、ござらんのやら、分からんような雰囲気の中で、神様を求めたって、それは本当のことにはなりません。はっきり神様が。目にこそ見えない言葉にこそ聞こえないけれどもね。神様の働きが、このお広前いっぱいにあっておるんだ、起こっておるんだという中に、神様を目指して神様の働きを、いよいよ分からして頂こうとする精進をしておるわけです。そんなわけですから、昨日は一遍一番都合の良い日に、行事の色んな無いときに、どっか外で信心実習でもさせてもらおうか。
 まあ大宰府さんにでも、やらせてもらおうか、久留米の梅林寺さんにでもという話があって、みんなの良いところにと言う事でございましたら、皆の話がまとまって、一時の御祈念を頂いて一時半からその、梅林寺さんに行こうと言う事に話しが決りました。折角行くなら、あちらのおぼんさんのお話しも頂きたいというて、電話を午前中にさせて頂いたんだそうですけれども、やっぱあちらではもうその、信心の道場でお話やら出来ない。ただ見学においでて頂く分は、まあ差し支えないと言う事で参りました。
 もうそれこそ黒衣に身を固めて、十七名の男の修行生ばかりが、自動車四台を連ねて、あちらへ参りました。そしてまあ色々まあ見せて頂いたり、拝ませて頂いたりしたわけですけれども、帰ってきて皆に一人一人、私は聞かせて頂きましたが、本当に金光様のご信心であって良かったと言う事でございます。合楽に御神縁を頂いておって良かったという事でございます。
 もうまあ他所の他宗派の事を、どうこうじゃないけれども、ただ金光様のご信心を頂いておって良かったと言う事は、どう言う事かというと私共が、いよいよ、有難うならせて頂く稽古をすると言う事。どういう風にして、有難うなって行くかという事を研修すると言う事。それを合楽では合楽理念と、最近は言っております。その合楽理念に基づいて、しかもそれを楽しゅうしかも嬉しゅう、一歩一歩われ生神へ近付くという生き方を身につけていけると言う事がです。
 はっきり自分の心に頂きこめたと言う事が有難い。金光様の信心を頂いておりましても、果たしてこれで良いのであろうかという人も、沢山ございましょうけれども。これならば間違いがない。この道を歩けばというものを、はっきり指示して頂くと言う事。今朝の御理解にも、皆が遠方からこのようにしてお参りしてくるけれども、此方は参ってたずねる所がなかった。皆がお参りをしてきて。いうならばたずねる所がある。間違いのない方向を指し示して下さることが出来る。
 いよいよ段々信心の徳を受けて身しのぎが出来るようになれという、今日の御理解に基づいて、今朝から、まあ頂きました。お互いがその身しのぎが出来るようになるという、一つ、おかげを頂かなければなりません。勿論身しのぎと言う事は、御徳を受けると言う事でありましょう。いよいよ自分の本心の玉を、磨いた上にも磨かせていただくと言う事でございます。
 昨日梅林寺さんで感じた、皆さんが一様に感じたことは、その修行のまあいうならば、厳しいと言う事。朝は夏は三時半、冬は四時だそうです。もうあの広いところに、それこそ火の気一つありません。それにね。もうそれこそ素晴らしい、その庭でも内外共に、もうそれこそ光り輝くするほどしに、まあ掃除なら掃除が行き届いております。昨日も今十人ほどおられるそうですが、二人ほどおられました。
 後は全部托鉢に出ておると言う事でした。そういう厳しい修行を積み上げて、何を願い何を求めておいでられておるのであろうか。まあ金光教で言うなら、教理又は教学というものを身につけて、有難くなると言った様な雰囲気は、さらさら感じられなかったのは、私だけではなかった。皆がそれをやっぱ感じてきた。そこでです私は帰らせて頂きまして、神様にお礼を申させて頂いておりましたら、一本の綺麗な大根が、まあ引き抜いたばっかりの、泥がいっぱいついておる大根を頂いた。
 大根と言う事は、ここでは苦労がないと言う事ですね。ご牛蒡は苦労しておると言う。長う牛蒡は苦労しておる。だからその使い物になるのです。ご祝儀物にでもまたは仏事事にでも、日常茶飯事のお惣菜にも、牛蒡というもんは役に範囲が広いというわけです。まあそういう風に私は以前に頂いたんですけれども、大根はいわば苦労しとらんと言う事。白うしとるわけです。
 今合楽でもうこれは絶対に御道の信心、金光教の信心の一番素晴らしいと言う所を、もう他の宗教宗派が追従を許さないと言う所を、今合楽理念の中に、色々とうたってあります。桜の花の信心より、梅の花の信心をせよと言う様な事は、今までしてきたような信心では、みんな嘘だぞと。どんなに仏教が沢山の信者を擁しておる、キリスト教が世界的だと言うても、もう咲いた花、一時はそうだったかも知れんけれども、今はもう散り果てておる姿が、あの大宗教の姿だと生きたものも何にもない。
 というてご利益があるぞと言うて、最近新興宗教辺りがご利益ご利益と言う事で、まあ宣伝をしておりますけれども、それには何の理念もない。あるのは有りましょうけれども、天地の理に基づいた理念でないと言う事であります。だから梅の花の信心をさせて貰うと言う事は、言うなら信心辛抱、そして花が咲いて鶯が止まって、そしてそれが一つの実りともなって、いつまでおいても悪くならんという徳にならなければならない。まあそういう風に頂いた。
 大根の汚れておるというのは、今言うようにほんなら、合楽では今そのこらもう、あらゆる宗教宗派が、表行と言う事は致します。言うなら水をかぶったり断食をしたり、火の行をしたり断ち物の行をしたり、色々なまあそれこそ、一生逆立ちしとくという修行すらあるくらいですからね。あっははところが、こういう信心はもう、すべて桜の花の信心だ。修行をしておるときに、いかにも力があるかのようであるけれども。
 これが修行を一度止めるとすると、もう後は夕立雲のように、こうもりもりとしとるかのようにあるけども、ざあぁっと消えてしまう。これが桜の花の信心。梅の花の信心というのは、そういうものではない。人間がいよいよ清まっていく。いよいよ本心の玉を研いていく。いうならば心の行一つに絞らなければいけない。金光教の行は。表行より心行をせよと教えられる。そんなら表行もして良いかという意味ではなくて、表行よりは心行をせよと言うのです。
 仏教よりは金光教をせよと言われたら、仏教を捨てなければならないでしょうが。○○教より、金光教が良いと聞いたら、ほんならその○○教を捨てなければいけないでしょうね。あの辺のところを、皆がいただき違いしておる。表行より心行をしなさい。梅の花桜の花の信心より、梅の花の信心をせよと仰せられるのですから、梅の花の信心にならにゃいけん。表行では表行を全廃して、心行にならなければならない。今これも合楽理念の芯になるところであります。
 ところがこの心でする修行ですから、これはもうごまかしが利くわけです。いわばその苦労のないと言う事は、その心行の事を意味したものであろう。だから心行をしておるならばです。お風呂に入っても便所にいっておっても、自分の居間でも例えばこげん、よごどるばってん、もう良か良かと言う様な心は起こしちゃならん。これを真っ直ぐするのが心行だと。上がってくる履物が汚れとるなら履物を拭いてあげることも心行なら、真っ直ぐすることも心行なんです。
 言うなら梅林寺さんあたりのように、整理整頓がもう輝くばかりに出来ておると言う様な事は、これはその信心によって心行ではなくて、そうしなければならないごとなっておるんです。だからもう、非常に厳しい。やかましく言われる。ところがほんなら金光教では、そういう形の事は言わないけれど、心行です。だから心行が本当に出来ておれば、それが出来ると言うのです。だから今朝から皆さんに申しました。もう合楽で信心の稽古をする人は、ここに徹底していくこと以外にはないのだ。
 心行に徹する事なのだ。そこで面倒くさいなあと思う事は。そん時に初めて合楽の修行はそこから始まるんです。面倒くさいなあと思ったときに、さあこれが合楽の修行だと思うて、それをしていかなければいけない。もう良か良かとこう思うその心が間違っておるのですから、その良か良かと言わずに、それをして行くのが心行だと。もう良か良かほうからけときなさいと言う様な時にです。あここが合楽の行だと言う訳であります。梅林寺さんあたりのその素晴らしい、その様子を見てきて。
 形を真似するのではない。合楽ではそれが出来るほどしの心行を頂かなければいけないと言うのです。だからね。も、面倒くさいなあと思った時ほど素晴らしい修行が、だから出来るときなのです。今までは面倒くさいなあと思った、そこんところを、この合楽理念の中には、どう説いてあるかというと。なそうと思えば子供でもなせることを、あだおろそかにするな。なそうと思えば、子供でもなせるようなことをお粗末にするなというのです。だから見やすいです。
 見やすいがゆえまた、難しいのです。良か良かでしょう、ああせからしかと言う事になるわけです。だからせからしいと思うたり。良か良かと言った様な、その心を大事にして、そういう心が起こったならば、それをきちっとしていくと言う事が心行だと。勿論心行とは、不平不足を言うてはならぬ。暑い寒いを言うてはならぬ。言うなら自然の御働きに対して不平不足を言わないと言う事が心行なんです。そういう大きな心行ができる事のために、私共は小刻みにです。
 それこそ良か良か修行を止めなければならない。ああせからしかという時に、それを実意丁寧に、それをきちっとしていく事が心行だと思う。だからやろうと思えば子供でも出来ることなのです。と言うてごまかそうと思えば、なんぼでもごまかせることだというわけであります。そういう、いわば、心行に取り組ませて頂く時に、自分の心のなかの。それこそ、小さい糸屑のような傷にでも気がつくわけでございます。ですからそれを取り除かせていただこうという。そこに心行の値打ちがあるのです。
 私は今日先ほど前講に話されました、折尾の先生が。親のいわば父親の御霊様とお話し合いがしてみたい。お母さんが一人でボツボツやっておられるから、僕が早く一人前になってお母さんを助けたい。この親孝行の心が、合楽理念の根本になっているんだよ。だからこの心をいよいよ極めて、そして信心に向こうていくと、これが信心がないなら、そら親に撫でたり擦ったりすることが親孝行のように思うとるけれども、信心で親孝行が出来てくると、必ず次の親を分からせてもらう。
 そしてまたその次の親が、そしてまたその次の親が分からせて頂く。金光大神の御恩徳が分かり、いよいよ最後に天地の親神様のお心が分かり、天地の親神様のお心に沿い奉ろうとする。天地の親神様の、一番の忠義者にお取立てが頂きたいと言う様な、言うなら出来まいけれども、そういう健気な心が起こってくる。だから親孝行というのが、信心によって、段々エスカレートしていくところにです。信心の向上があるのです。
 合楽で皆さんが、御祈念のたんべんに、御神前に向われるたんべんに、これだけは願わなければなりませんよ。これだけは願うでしょうと言われておる、五つの願い。なんと言うても一番大事なものは健康であります。体の丈夫の事を本気で願います。次には家庭に不和のないが元である。次にはどうでもこの信心が子に孫に伝わって、子孫繁盛家繁盛のおかげを頂くという願いの信心。そういう願いをさせて頂いておると、段々分からせて頂く事がある。体の丈夫をずっとお願い板します。
 と言いながら、大酒大食をすると言った様な事は出来ませんよね。私はこの願いが立てられるようになって、夜食というもう一時も二時も、何時もよくなりますから、お夜食を頂きます。それをすっきり止めました。お夜食どんしよって体の丈夫を願うたんじゃ、願いが願いにならん。お願いをするからには、自分で自分の身体の養生もしなければならない。努めなければならない。
 私はこの五つの願いが立てられるようになって、どうぞ家庭に不和の無きが元であると言う事を願うからには、もう私が家内やら子供やらを、責めておるような事では、家庭円満のおかげは願うても、神様は下さらないと思う。家内はどうじゃ子供はどうじゃともう、そのまあ口上を言うたり、責めると言うことになったら、そしてどうぞ家庭の不和が無きが元でございますと言って願ったって駄目。私はね。もう決して自分で育てようとは思いません。自分が責めて直させようとは思いません。
 目に余る様な時には、神様に持っていって、神様からお育てを頂く、神様から修正をしていただくという心掛けにならせていただかにゃ、私は以来家族の者を責めたことはございません。ご信者さん方を責めた事もないです。そしてやっぱこうやって信者さんがたも育って行きゃ、家庭の中も育って行く。先月あの熊本の、大変有名な基山の教会の娘さんが四、五日、ここに修行に来ておりました。もう一番とにかくそれこそ今言う、評判があんまり悪かけんで、初めの間は観察のごたるつもりで見よった。
 さ一日おり二日おるうちにです。一番ここで素晴らしいことは、ご兄弟がこんなに沢山おられるし家族がこんなに、入り組んでおられるのにもかかわらず、もう本当に一糸乱れずそのいうならば、家庭のなかが円満にみんな行っておる様子が、ただこう見せくれの事じゃなくて、居ってみて分かると言う事なんです。これは実を言うたら私の教会でも、どこどこの教会でも、家庭の事には大変やはり悩んでおる。
 それが合楽の教会の場合にはもう、当たり前の事として、それが見事に出来ておるとこう言うて、まあ下さいましたけれども、私もそうだと思います。そこでほんなら家庭に不和の無きが元ですから、ほんなら私が中心になって願う私がね。責め立てよったんでは、様なことでは、私は家庭の平和は、本当の平和は望めないと思う。子孫繁盛家繁盛を本当に願うならばね。ほんならお金なんかでもちょうど、そのなんていうんですかね。いうならば贅沢をしたりね。
 与えられてのものなら有難く頂くけれども、自分から求めて楽をしようと、言った様な心を捨ててこそ、初めて繁盛のおかげにも繋がるし、そういう信心が代勝りの徳にもなってくるわけでございます。先ず健康の事。家庭に不和のなきこと。子孫繁盛家繁盛の事。こういうところの信心が、みっちり出来ておかげを受けて、また分からせて頂くことは、これは私だけがおかげ頂いておるというだけ。私の家だけが円満であるというだけでは出来ない。そこからお役に立ちたいという信心が生まれてくる。
 御用に神様のお喜び頂ける様な御用に、それが天地の親神様の心が心として分かってくると、その親神様のお心に、応え祭らなければおられないと言う事になってくるところから、信心が本当の物になってくる。光りを放ってくる。お徳を力が頂けて来るようになる。最後に御神願御成就の事のためのお役に使うて頂きたい。神様の世の中に大きな幸せをもたらせたい。人間氏子を助けたい。幸福にしたいというその願いのその手にも、足にもならせて頂こう。いよいよ光明世界を広げていこう。
 この光明世界の輪を広げて行こうと言う様な運動にも参画させて頂こうと言う様な、いわば健気な願いやら、行いやらが出来るようになる所に、いよいよ私の傷だらけのその玉もです。神様がいかにも傷がないかのように。お庇い下さっておかげを下さるというのが、御道の信心なんです。ですから皆さんの信心の過程はどこにあるか分かりませんけれども、これだけは五つの願いはどうでもね。なさなきゃならない。どんなに地に這って願っても良いわけです。
 もう聞いたけんもう分かった分かったと、嫌がったっちゃ、また繰り返しこれだけは願っていく。人間の幸福。梅林寺さんに私は参りましてからですね。思うた事は、金光様のご信心は、なんと言うても、有難うならせて頂く稽古、そういうものが、さらさら感じられない。ただ難しい教理と言った様なものを勉強したり、その教理を分かるために、一生懸命の言うなら、表行的なものをなさっておられる。そこにどういうものが生まれてくるかは、私はまだ良く分かりませんけれども。
 金光様のご信心の一番素晴らしいことはね。信心をしてれば、一年一年有り難うなって来るという、その基礎土台というものを、はっきりしないと、何十年信心しておっても有り難くならないのです。有り難くなれれるその道を分からしてもらい、それをほんなら合楽理念と言うのですから、しかもその合楽理念を体得したら、楽しゅう有り難うそれが出来ると言うのですから、どうでも一つそこんところを皆さんが分からして貰うて、今日はそのところの芯になる。
 もう合楽理念の根本は、言うなら親孝行だと、止むにやまれん思いで、親孝行がしたい。信心が進んでくる。そこからまた次の親へまた次の親へとの、心がエスカレートしていくところにです。信心の向上が図られるわけであります。そしていつの間にか自分が、どうしてこんなに有難うなってきただろうかと言う様に、有難うなって来る。その有難いという心に、おかげがあると仰せられるのですから、どうでも有難うならせて頂く稽古に精進を惜しんではならないと言う事でございます。
   どうぞ。